ALS患者を通して生を考える

NHKの番組でALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんが取り上げられていた。この病気は徐々に体中の筋肉が動かなくなって、歩くことはもちろん、食べることも、話すことも、ひどくなると瞼を開けることも出来ず、見ることも出来なくなる(視力はあるので、瞼を開けてもらえば見える)。それなのに脳は正常に機能しているので、自由に考えることは出来るのだ。また触覚も皆と同じで、痛みを感じられる。だけど、相手の言葉は聞こえているのに、それに対するレスポンスが全く出来ない状態。こんなの、想像するだけで頭の中が真っ暗になる。

しかし、上のようにコミュニケーション手段が完全に奪われるのはALSの最終段階。話せなくなったある患者さんは、顔の筋肉の僅かに動かせる部位にセンサーを取り付けてパソコンとつなぎ、筋肉のピクッという動きの回数で文字入力をしていた。この方曰く、病状が悪化してわずかに動く顔の筋肉も動かなくなり、意思疎通の手段が完全に絶たれてしまったら、人工呼吸器を止めてほしい、ということだった。意思表示出来なくなったら、頭がいくら働いていてもそれは生きているとはいえないから。この患者さんに対して作家の柳田邦男さんは、家族のため、周りの人のために生きてほしいと願った。だが、この患者さんの意志は揺るがなかった。一方、別の患者さんはコミュニケーション手段を奪われても、天寿を全うするまで生きるという考えだった。

自分ならどうか。このまま生き続けるか死を選ぶかどう決断するだろう。楽に死ねるなら迷わず死を選ぶ一方で、死を怖れ医学の進歩に一縷の望みを託す自分。そう簡単には決断出来ない。生に執着しているからだろう。

近年日本では高水準で自殺者数が推移している。毎年3万人を超えているそうだ。仮に自殺者数を3万人とすると、毎日全国で82人が自殺しているという計算になる。人口からしたら微々たる数かもしれないが、自殺率でみてみると先進国でワースト1、2位を争う最悪クラスだ(途上国を考慮しても世界最悪クラス)。世界2位の経済大国が自殺率最悪クラスとは何たる皮肉だろう。経済発展と国民の幸福度合がある水準から比例しなくなるという格好の例だ。それに対して、デンマークという国は総じて国民の幸福度合が世界トップレベルだそうだ。更に1人当たりGDPは日本の上を行く。日本では「生きるために働く」という人が多いと聞くが、欧州のように「遊ぶ(バカンス)ために働く」というライフスタイルに転換出来れば、自殺者数が減る一つの要因になり得ると思うのだが。

話が若干逸れてしまったが、何不自由なく生きている健康な今の自分をもっと大事にしたいと思った。体の病気が原因で死ぬ人、或いは死を選ぶ人、心の病気が原因で死を選ぶ人、様々な人がいる。このうち死を選ぶ人には対話を通じて死を回避してもらうことが出来る望みがある。そんな人に生きる希望を与えられる人になれたらいいなとちょっとばかり思ったのであった。