これからの大学教育のあり方

この前カンブリア宮殿『理想の人材スペシャル』で、秋田市国際教養大学(Akita International University、AIU)が取り上げられていた。初めて耳にされた方も多いのではないだろうか。私は今回初めてAIUの存在を知ったわけだが、東京の国際基督教大学ICU)から、東京にある私立大学だと真っ先に思い浮かべた。そしたら、秋田の公立大学で2004年に開校した新しい大学ということだった。学長は東京外国語大学元学長の中嶋嶺雄さん。東京や愛知はもちろん、全国各地からAIUに学生が集まる。そのAIUの学生が就職市場で引っ張りだこなのだそうだ。わざわざ名だたる大企業が面接等のためにAIUのキャンパスに足を運ぶほどである。ある企業の採用担当者は「有名大学を凌ぐ力を持つ人も多数いるので凄く魅力的。一方でまだあまり注目されないでいてほしい」と言っていた。卒業生の就職内定率は実に100%というから驚きである(内定先は日本を代表する一流企業ばかり)。今年2月時点の大学生の就職内定率が80%、2000年の就職氷河期をも下回る過去最悪を更新したことを考えると、目を丸くするしかない。

では、実際にAIUではどのような教育が施されているのだろうか。特徴を以下に列挙する。


・授業は全て英語。構内での日本語は禁止⇒先生方の会議も英語で行うという徹底ぶりである

・キャッチフレーズ「英語で学び、英語で考える」

・1年間の海外留学が必須

・先生の約半数が外国人

・毎年130人の留学生を受け入れ

・全国初24時間365日オープンの図書館

・校内の寮でも国境のない同居生活

・80時間労働で3単位のインターンシップ制度


特に映像で印象に残っているのは、この日の講師元国連事務次長明石康さんとAIUの学生が英語で議論している場面。まるでアメリカの大学のように学生が主体的に授業に参加しているのだ。

一方日本の多くの大学では、授業中に先生の話を一方的に聞くだけで、学生自ら発言する機会がほとんどない。これでは多くの学生にとって、自分の頭で考える機会が減り、何のために授業を受けているのかわからない。極論すると大学教育はビジネスに何の役にも立たない。じゃあ、何のための大学なのかという話になってくる。企業側はそのような大学の現状を熟知しており、大学で学んだことが役に立たないから、新入社員をOJTで鍛える。これでは企業側の負担が増すばかりだ。「大学は本当に教育(深い教養+英語力)してほしい」と企業はようやく思い始めているということである。

以上のことを考慮して、自分なりに日本の大学教育に求められていることを考えると、学生の主体性を導く教育であり、自分の考えを自分の言葉ではっきり発言できる人材を育成することなのだと思う。更に近年のグローバル経済において、英語ができないことは世界中の企業と取引ができないことを意味し、英語リテラシーの養成も課題となってくる。AIUのような教育を施すことによって、先に上げた英語リテラシーと主体性の同時取得が可能になり、日本の大学教育の閉塞感を瓦解することにつながると考える。AIUの教育方針に賛同した大学は、積極的に自校の教育改革を実行し、真剣に人材育成を行う教育機関になってもらいたい。


[http://www.aiu.ac.jp/japanese/:国際教養大学HP

上海から学ぶ

昨日は国際観光論の授業でゲストスピーカーに来て頂いて、貴重なお話を色々お聞きすることができた。この日の先生は、上海市観光局首席顧問の岡本義正さん。中国に関わる仕事を始められて20数年、上海万博の開催に向けて尽力されている方だ。さぞかし長年上海に住まわれているのだろうと思ったが、大阪の高槻在住で月一で上海に行くのだそうだ。

で、この方が強調しておっしゃっていたことが、「一年以内に上海へ行って、その場の雰囲気を肌で感じてもらいたい」ということだった。「東京へ行くよりも、一度上海へ行ったほうがいい。中国はテレビで見ている以上に勢いがある。そのスピード感に触れてみれば、今までとは違う自分に出会えるかもしれないし、就職に対する視野や選択肢が広がるかもしれない」という趣旨だった。

では、上海という街はどのような街なのであろうか。先生の話をまとめると、以下のようになる。


・アジアの中心
・人口1500〜1700万人
・日本の進出企業7000社
・現地在住日本人5〜7万人
・ロサンゼルスのように、高速道路が縦横無尽に張り巡らされている
・地下鉄の総延長が400km。大阪の3倍


また、上海人の特徴として以下のようにおっしゃっていた。


・小学校1年生から英語を勉強している⇒英語がよくできる⇒ここにいる立命生のほとんどは負けるだろう
・企業家精神を持っている人が多い⇒同じ会社に2、30年も働く人はほとんどいない


なぜ、英語ができるかといえば、英語ができれば給料が上がるという構図が成立っているからだそうだ。上海には純然な観光地と呼べる場所があまりなく、上海に訪れる日本人のうち、80%がビジネス目的だということからも、外国人ビジネスパーソンが上海に集まっていることが想像できる。これらのビジネスパーソンの共通言語が英語だとすれば、英語のできる中国人が優遇されるのは自明の理だ。また、企業家精神を持った人が多いということに関連して、上海の大学生は就職難らしいのだが、会社に無給で3年間働かせてくれと頼み込む人が多く、3年働いた後独立する道を選ぶ者が少なからずいるということである。

また、「中国人は日本のことをよく知っている。一方、日本人は中国のことをあまり知らない。この両者がビジネスの上で対峙したら、どちらが勝つかは目に見えている。中国は弱肉強食の世界で、勉強できる人は凄くできるよ」ともおっしゃっていた。

このような話を聞いたら、危機感を持たずにはいられない。と同時に、先生が幾度となくおっしゃっていた、「上海へ行ったほうがいい」というフレーズが頭に残り、この目で確かめてみたいと思うようになった。

これは以前ワールドビジネスサテライトで見た内容だが、渡米する日本人留学生数が中国、韓国の留学生数に負けているということだった。中国ならまだしも、日本の人口の半分以下の韓国に負けているという事実は見逃すことができない。「人は人、自分は自分」という一言で片付けていいものなのだろうか。確かに自国で(座学、実学問わず)必死に勉強をして、ビジネスの世界で脚光を浴びる人が多いことも事実である。しかし、世界の知が集積したアメリカで異文化・異民族に触れ、必死に勉強をしたなら、ビジネスの世界で成功する確率が高まるのではないだろうか。更に、世界的な視野を持ってビジネスを展開する企業家が多く誕生することも予想される。このままでは、16世紀に世界最強であったポルトガルが後に歩んだ道を、日本が辿ることも避けられない。本当のガラパゴス化が目の前に迫っているかもしれないのだ。この先日本がどういう道を辿るかは、日本人一人ひとりの意識に掛かっているといっても過言ではない。もっと危機感を持ったほうがいいと、個人的に思うのである。

とまぁ、色々と考えさせられる授業であった。

ALS患者を通して生を考える

NHKの番組でALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんが取り上げられていた。この病気は徐々に体中の筋肉が動かなくなって、歩くことはもちろん、食べることも、話すことも、ひどくなると瞼を開けることも出来ず、見ることも出来なくなる(視力はあるので、瞼を開けてもらえば見える)。それなのに脳は正常に機能しているので、自由に考えることは出来るのだ。また触覚も皆と同じで、痛みを感じられる。だけど、相手の言葉は聞こえているのに、それに対するレスポンスが全く出来ない状態。こんなの、想像するだけで頭の中が真っ暗になる。

しかし、上のようにコミュニケーション手段が完全に奪われるのはALSの最終段階。話せなくなったある患者さんは、顔の筋肉の僅かに動かせる部位にセンサーを取り付けてパソコンとつなぎ、筋肉のピクッという動きの回数で文字入力をしていた。この方曰く、病状が悪化してわずかに動く顔の筋肉も動かなくなり、意思疎通の手段が完全に絶たれてしまったら、人工呼吸器を止めてほしい、ということだった。意思表示出来なくなったら、頭がいくら働いていてもそれは生きているとはいえないから。この患者さんに対して作家の柳田邦男さんは、家族のため、周りの人のために生きてほしいと願った。だが、この患者さんの意志は揺るがなかった。一方、別の患者さんはコミュニケーション手段を奪われても、天寿を全うするまで生きるという考えだった。

自分ならどうか。このまま生き続けるか死を選ぶかどう決断するだろう。楽に死ねるなら迷わず死を選ぶ一方で、死を怖れ医学の進歩に一縷の望みを託す自分。そう簡単には決断出来ない。生に執着しているからだろう。

近年日本では高水準で自殺者数が推移している。毎年3万人を超えているそうだ。仮に自殺者数を3万人とすると、毎日全国で82人が自殺しているという計算になる。人口からしたら微々たる数かもしれないが、自殺率でみてみると先進国でワースト1、2位を争う最悪クラスだ(途上国を考慮しても世界最悪クラス)。世界2位の経済大国が自殺率最悪クラスとは何たる皮肉だろう。経済発展と国民の幸福度合がある水準から比例しなくなるという格好の例だ。それに対して、デンマークという国は総じて国民の幸福度合が世界トップレベルだそうだ。更に1人当たりGDPは日本の上を行く。日本では「生きるために働く」という人が多いと聞くが、欧州のように「遊ぶ(バカンス)ために働く」というライフスタイルに転換出来れば、自殺者数が減る一つの要因になり得ると思うのだが。

話が若干逸れてしまったが、何不自由なく生きている健康な今の自分をもっと大事にしたいと思った。体の病気が原因で死ぬ人、或いは死を選ぶ人、心の病気が原因で死を選ぶ人、様々な人がいる。このうち死を選ぶ人には対話を通じて死を回避してもらうことが出来る望みがある。そんな人に生きる希望を与えられる人になれたらいいなとちょっとばかり思ったのであった。

人は何のために生きているのだろう

みなさんは人生の目的を考えたことがありますか。何のためにこの世に生を受けたのだろうと。子どもの頃はそんなことを考える必要がなかった。なぜなら毎日が輝いていて、希望に満ち溢れていたから。生きる意味なんてどうでもよかった。けれど大人になって複雑な社会を垣間見て、将来について真剣に考える必要に迫られた今、自分を前に突き動かし続ける目的が何もないことに気付いて唖然とした。「ファンドマネージャーになって、生活に困らないくらいお金を稼いで、世界中を旅したい」というのが目標だけれど、それらをすべて手にしたら自分に何が残るのだろう。虚しさしか残らないのではないか。でもその答えはそれを成し遂げた人にしかわからない。

きっと人生の目的って先に考えるものじゃなくて、人生を歩むにつれて見つけ後付けされてくるものなんだろうね。もがきながら見つけるものなんだよね?それが人生だよね?

何不自由なく生きてるからこそ、こんなことを考える余裕があるのだなあと思う。明日の生活を保障されていない人たちがごまんといるこの世の中で、平和ボケというか、いかに自分が贅沢な毎日を送っているか。貧しい人たちは明日へ命をつなぐために今をどう生きようか精一杯悩み考えている。一方豊かな人たちは豊かな人たちなりに、今、そして将来どう生きようか悩んでいる。人間、悩みの種とは切っても切り離せない定めなのだろう。

こう書いているうちに、世界中をこの目で見てみたくなってきた。国や人種という枠に捕われず、様々な人たちと会って話をしたり、その土地どちの生活に触れてみたい。そしたら自分が一旦バラバラに崩れると思うけれど、その上に新たな土台を築き上げることが出来ると思うんだけどな。人は他者を通して自分を知るけれど、日本という枠だけでは狭すぎて自分の一部しか知り得ないと思うんだ。当面は世界中を旅する第二の中田ヒデを夢見て、一日一日を生きていこう。

國母和宏の記者会見での態度について

別に奴の服装などの見たくれを批判するつもりはないが、記者会見での発言は大問題だ。餓鬼丸出しじゃねーか。

「ちっ、うっせーな」
「反省してまーす」

ムカついててもそれを表に出さず、素直に反省の弁を口にするのが大人としての態度。服装の乱れ云々で奴を取り上げるメディア自体くだらないと思うが、それ以上に「ドレッド牛野郎」の態度が許せなかった。奴が日本を代表する会社の社長と仮定して今回のような態度をとった場合、確実に会社の信用を落とすことになる。誰に迷惑がかかるのかを考えてみれば、会社の株を所有する株主であり、今回の場合は彼を応援してくれているファンというところだろう。「あんな不遜の極みみたいな奴を応援しているんだ」と他人から冷めた目で見られ、自分の株を落とすことになるかもしれない。極端な例かもしれないが、奴は日本を代表するオリンピック選手の器ではない。国民の代表という意識がなさ過ぎる。不愉快だからテレビに出さないでほしい。

「筆談ホステス」斉藤里恵さん

「筆談ホステス」と聞いてピンとこられた方が多いのではないだろうか。つい最近スペシャルドラマ『筆談ホステス』が公開され、ご自身でも本をお書きになっている斉藤里恵さん。幼いころに聴力を失い、いじめに遭った学生時代。高校を中退し人生に光が見えないときに出会ったホステスという仕事。地元青森のホステスから東京銀座No.1ホステスに上り詰めた彼女。まだ25才という若さだ。耳が聴こえず、ホステスという仕事が本当に勤まるのか疑問だったが、『金スマ』やドラマ『筆談ホステス』で彼女の筆談術を知ると、疑問が溶解した。ただの筆談ではないところに彼女の人間としての凄みが感じられる。彼女の言葉一つ一つに重みや気品があり、何よりも言葉にメッセージ性が強いのだ。

「チャンスは蓄積できない」(目の前のチャンスをつかめ)
「難がない人生は無難な人生。難がある人生は有難い人生」
「恋は心という漢字が下にあるから下心。愛は心が真ん中にあるから真心」

彼女の人間性が表れた言葉の数々。心にダイレクトに訴えかけてくる言葉とはこのことを指すのだろう。「言葉は時に人を傷つけ、時に人を幸せにする」言葉で人の心を動かすことの出来る人になりたいと、彼女の生き方を知ってそう思った。

筆談ホステス

筆談ホステス

筆談ホステス 67の愛言葉 (青森一の不良娘が銀座の夜にはぐくんだ魔法の話術)

筆談ホステス 67の愛言葉 (青森一の不良娘が銀座の夜にはぐくんだ魔法の話術)

占いについての再考

占い好きのみなさんにとって何度もしつこいかもしれないが、1週間ほど前の朝の番組で島田秀平さんが番組ゲストの手相を見ておられた(2日連続で)。この方は最近テレビに引っ張りだこの手相占いの先生で、元お笑い芸人だそうだ。「KY線」などのように手相に独特の名称をつけ、最近では手相が誰にでも簡単にわかるオモチャ「テノヒライト」まで発売したのだそうだ。まるでドラえもんの道具に出てきそうな代物である。

島田秀平のテノヒライト スーパービジネスマン編

島田秀平のテノヒライト スーパービジネスマン編

この「テノヒライト」にはいろいろなバージョンがあって、上のスーパービジネスマン編はそのほんの一例だ。簡単に手相がわかり、しかもユニークさを忘れないこの商品、さぞかし売れていることだろう。

しかしここで一度、手相占いについて考えてもらいたい。手相占いがどこで生まれ、どのように発展を遂げてきたか詳しいことは知らない。おそらく手相に対する一定の法則のようなものを経験として積み重ねて、書物や口伝によって代々伝えられてきたのだろう。そんなことはどうでも良いのだが、この手相が未来の指針となり得るかどうか疑わしいと思わないだろうか。血液型は今現在の自分の性格や特性を表わし、手相は未来の自分を映す。血液という液体や手相というただの線が人間にどう影響するというのか。血液型は外科手術によって変わることがあり、手相は整形によって誰でも改変できるのだ。血液型が変わったら以前と比べ、がらりと性格が変わるとは考えづらいし、手相を整形し良い手相を持つことで人生がうまくいくとも限らない。でも血液型占いや手相占いが人間に影響を及ぼすかもしれないということを完全に否定することはできない。なぜならこれらを完全否定しようと思えば、血液型や手相が人間に影響を及ぼす可能性が全くのゼロであることを証明しなければならないからだ。この難解でつかみどころのない(血液型、手相と人間の性格、未来の行動との)関係は、脳とこころの関係に似ている。双方がどのようにリンクしているのかがよくわからないのだ。ゆえに占いを信じる人に「占いの馬鹿馬鹿しさ」を論理的に説明することは出来そうにない。

私が占いに対してどういう立場に立っているのか、ここではっきり述べておこう。答えは「中立」的だ。「ここまできて中立はないだろ」と思われた方には申し訳ないが、私も占いをおみくじのように参考にしているのだ。悪い結果が出たら今後こういうことに気をつけようという意識が働き、反対に良い結果が出たら前向きになれるし、暗い未来に対して少しは楽観的でいられるからだ。占いやおみくじは、くじ引きのようにドキドキ、わくわくさせてくれるゲームみたいなものかもしれない。占いはたまにするのが面白いのであって、上記のような「テノヒライト」を買おうとは私は思わないが、みなさんはどうだろうか。また占いの話題は個人的にあまり好きではない。

余談だが、アメリカ人にとって血液型は重要でなく、あまり相手に血液型を尋ねたりはしないそうである。そういえば大学の同級生に血液型不明という男子がいたが、あれはどうしてだろうか。